比良坂 初音
アトラク=ナクア

動け無い事は恐怖になるだろう……の図



動け無いだろう?



 ハア、ハア、ハア、ハア…………
 初音は血溜まりの中、大きく肩を上下させて呼吸する。
 その原因は運動による酸素不足よりもむしろ───未だ収まりつかぬ激しい感情の所以。
 緑色の血溜まりの中、すでに何分割されたか分からぬ肉片を忌々しげに睨みつける。
「まだ殺したりないけど……フン、これで勘弁してあげるわ。
 ……力が足りない。早く贄を探さなければ……」
 いったいどれほどの時間を、自分はこの地で費やしただろうか。
 初音の糧である人間という生き物は、進歩の速度が非常に早い。
 おそらくは、彼女が知っていた頃からその生活様式をガラリと変えているだろう。
 それを思うと、自分がいかに刻を無為にしていたかをつくづくと思い知らされる。
 その原因であった肉片を今一度踏みにじりたい衝動を押さえつけ、初音はその場を立ち去った。



「まさか、こんな最果ての島にもお主のようなモノがいたとはな」
 初音との闘いに勝利した男は、そう感心したように呟いた。
 鬱蒼とした森の奥深く、木々の間を渡って張りめぐらされた粘り気のある白い線。
 その糸によって宙に束縛されている様は、ある意味初音にとって最も屈辱的な姿───まさに蜘蛛の巣にからめ取られた美蝶だった。
 その男は大陸、いやもっと西方から流れてきたモノだった。
 この国では「あやかし」と呼ばれる類の生き物───その中でも、極めて初音と近い種族。
 単独で巣という縄張りを張り獲物を狩るその種にとって、同種との遭遇はそのまま戦闘を意味する。
 そして、渡来と土着の蜘蛛の化身による戦いは、初音の敗北に終わった。
 単純な個体としての能力なら、初音の方がむしろ優れていたと言って良いだろう。
 だが、自分に匹敵する存在を一つしか知らない初音に比べ、男の方があやかし同士の戦闘に慣れていた。
 その経験の差が、結果となったのだ。
「……私を、どうするつもり?」
 初音は、感情を押し殺した声で男に問いかけた。
 すでに勝負の趨勢が決定的となった今、無様に足掻いてみせることは初音の誇りが許さなかった。
「どうするかだと? ククク……これは異な事を」
 男が、喉の奥から出すような笑い声を立てる。それがまた、初音の感情を逆撫でする。
 男は、初音に向かって二本指を立てた右手を突きつけた。
 そして、揃えられた人差し指と中指を、見せつけながらゆっくりと開いていく。
「うぐっ」
 その指の動きを真似るように、初音の両脚が左右へと開き始めた。
 もちろん、自発的なものではない。
 まとわりついた糸が有無を言わさぬ力で、初音の股をこじ開ける。
 たちまち両脚は内股に筋が浮くほどにピンと張りつめ、初音の何もかもが露わになった。
「我らは同類であり、そしてここに雄と雌がいる。ならばすることは一つであろうが」
 男の双眸には、暗い欲望と嗜虐の炎が灯っていた。
 捕らえた獲物には一片の情けも持たない、己の欲望を満たすだけの存在としか見なさない捕食者の目。
 男の言葉の意味するものよりも、むしろその目を向けられたことに、初音は憤りと屈辱を感じた。
「我らの生は長く、ゆえに退屈だ。お主の躰、我が興のために存分に役立ててもらうぞ」
「…………」
 近づいてくる男を、初音は凄まじい殺意を込めて睨み続けた。
 きつく噛みしめすぎた唇が破れて、新たな緑色の血の筋を作ったことも、初音は気づかなかった。


 その日から、初音は男の慰みものとなった。
 いつか訪れるであろうその時のためにわずかな力の消費も惜しみ、じっと屈辱に耐え続けながら。
 その甲斐あって、後に初音は男を八つ裂きにしてその恨みを晴らした。
 だがその瞬間の訪れには、実に百年近い時間を待たなければならなかったのである。


ROGUEさんに頂きましたありがとうございました。



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